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總寧寺

(そうねいじ)

總寧寺(総寧寺)は、千葉県市川市にある曹洞宗の寺院で、江戸時代には関三刹(かんさんさつ)の一つとして曹洞宗の宗政を司っていた重要な寺院です。その歴史と文化は、現在も訪れる人々に深い印象を与えています。山号は「安国山」(あんこくざん)と称し、隣接して美しい里見公園があります。

總寧寺の歴史

創建と初期の歴史

總寧寺は、永徳3年(1383年)に近江国の守護である佐々木氏頼(六角氏頼)によって、通幻寂霊という僧を招聘し、近江国坂田郡寺倉村(現在の滋賀県米原市)に建立されました。これが總寧寺の始まりです。当初は、その地で宗教活動が盛んに行われていましたが、時代の変遷により様々な場所に移転を余儀なくされました。

享禄年間の焼失と再建

享禄3年(1530年)、戦乱の影響により總寧寺は焼失します。しかし、その後の8世住持である越翁宗超は、遠江国(現在の静岡県)掛川に退避し、新たに「常安寺」として再建しました。しかし、この常安寺も永禄年間に再び戦乱で焼失してしまい、住持たちは常陸国(現在の茨城県)に落ち延びました。戦乱の中でも再興の努力が続けられていたことがうかがえます。

北条氏政と関宿移転

その後、天正3年(1575年)に常安寺は北条氏政によって埼玉県幸手市にあたる関宿宇和田に移転されました。この移転は、当時の11世住持義翁盛訓の願いと、関宿城の簗田氏に対する北条氏政の牽制策が一致した結果とされています。その後、寺は「總寧寺」の旧称に復されました。

江戸時代の總寧寺

元和3年(1617年)、總寧寺は徳川秀忠によって関宿内町(現在の千葉県野田市)に再び移転されました。しかし、寛文3年(1663年)には江戸川の洪水を避けるために、現在の市川市国府台に移転され、関東曹洞宗の重要な宗務を司る「曹洞宗関東僧録司」としての役割を担うようになりました。寺領として128石5斗が与えられ、その地位をさらに確固たるものとしました。

寺の焼失と再興

總寧寺は、嘉永3年頃(1850年)に焼失してしまいますが、文久2年(1862年)に再興され、現在もその姿を留めています。明治維新後、寺領は新政府により上知されましたが、寺は依然として曹洞宗の重要な拠点であり続けています。

總寧寺の文化財

總寧寺には、多くの歴史的な文化財が残されています。それらは、寺院の長い歴史と深い信仰を物語るものです。

里見弘次の墓

里見弘次は、戦国時代の武将であり、房総半島を治めた里見氏の一族の一人です。總寧寺には、その弘次の墓が残されており、彼の功績と時代背景を今に伝えています。

小笠原貞頼の墓

小笠原貞頼は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、徳川家康に仕えた人物です。彼の墓も總寧寺の境内にあります。

里見甫の墓

里見甫は、昭和時代の実業家であり、戦後の日本経済発展に貢献した人物です。彼の墓碑は、岸信介によって建てられました。

関三刹 ― 曹洞宗の宗政を司った三大寺院

関三刹の概要

關三刹(かんさんさつ)は、江戸時代に曹洞宗の宗政を司った三箇所の寺院を指します。總寧寺はその一つとして、関東における曹洞宗の宗政において重要な役割を果たしていました。江戸時代、徳川幕府は曹洞宗に対する宗派統制を強化し、1612年(慶長17年)には關三刹に対し「関東僧録司」の地位を与えました。この制度により、住職は幕府の任命制とされ、宗派の統制が強化されました。

關三刹の役割

關三刹は、曹洞宗内において全国を三分して管轄し、月番交代で宗務を執行しました。この制度のもと、總寧寺を含む三大寺院は、全国各地に録所を設置して宗派の統制を行い、絶大な権力を持つに至りました。この体制は、曹洞宗の全国的な宗政を掌握し、地方寺院との関係を強化することに大きく貢献しました。

関三刹の寺院

まとめ

總寧寺は、千葉県市川市に位置する曹洞宗の歴史的寺院であり、江戸時代には關三刹の一つとして曹洞宗の宗政を司りました。その歴史は、戦乱や災害を乗り越えながらも発展し、現在も多くの人々に信仰されています。また、總寧寺には重要な文化財が残されており、地域の歴史や文化を伝える貴重な遺産として守られています。

總寧寺を訪れることで、日本の仏教史や江戸時代の宗教政策、また里見氏や小笠原氏などの歴史的背景に触れることができるでしょう。市川市を訪れた際には、ぜひ總寧寺を訪れて、その歴史と文化を感じてみてください。

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名称
總寧寺
(そうねいじ)

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