歴史
築城と初期の歴史
大永元年(1521年)、真里谷信清によって築かれた「小田喜城」が大多喜城の起源とされています。この城は後に真里谷氏から正木氏、そして里見氏へと支配者が移り変わり、上総国東部の拠点として重要な役割を果たしました。
天正18年(1590年)、徳川家康が里見氏から上総国を没収し、家臣の本多忠勝が城主となりました。本多忠勝はこの城を近世的な城郭へと大改築し、城下町の整備も進めました。
江戸時代の役割と荒廃
江戸時代には、大多喜城は大多喜藩の中心として利用されました。しかし、元和5年(1619年)に藩主阿部正次が拠点を移すと一時的に廃藩となり、城は荒廃しました。寛文11年(1672年)には幕府から再建命令が下されましたが、財政難により再建は十分に進まなかったとされています。
天保13年(1842年)には天守が焼失し、天守の代わりに「神殿」と呼ばれる簡素な建物が建てられました。明治3年(1871年)、廃城令によって城は取り壊され、その後長い間放置されました。
昭和期の復元と現在
昭和41年(1966年)、大多喜城の本丸跡が千葉県の史跡に指定されました。昭和50年(1975年)には天保13年の図面を基に、三層四階建ての天守が再建されました。この天守は鉄筋コンクリート構造で、内部には千葉県立中央博物館大多喜城分館が設置されました。
現在、施設は大多喜町に移譲され、町営博物館への移行が計画されています。2017年には「続日本100名城」に選定され、歴史ファンや観光客に人気のスポットとなっています。
天守について
天守の存在を巡る議論
大多喜城の天守については、江戸時代に存在したか否かで議論が続いています。一部の記録では「塀も門もない」とされており、天守の実在に疑問が投げかけられています。一方で、天守絵図が発見されており、完全に否定することは難しいとされています。
再建された天守は、歴史的な資料を基に推定復元されたもので、現在では模擬天守として位置づけられています。
遺構と見どころ
現存する遺構
大多喜城の本丸跡や堀跡、二の丸の大井戸が現在も残っています。特に大井戸は周囲17メートルの大規模なもので、本多忠勝が築城時に整備したとされています。また、二の丸御殿薬医門が現存し、千葉県指定史跡に登録されています。
再建天守と博物館
再建された天守は観光客に人気があり、城郭の歴史や文化を学べる博物館として機能しています。内部には地域の歴史資料や展示物が充実しており、訪れる人々に大多喜城の魅力を伝えています。
観光情報
大多喜城は、自然豊かな大多喜町の観光スポットの一つです。養老渓谷やいすみ鉄道などの観光地と合わせて訪れることで、歴史と自然の両方を楽しむことができます。