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方墳寺

(ほうふんじ)

方墳寺は、千葉県大網白里市大網にあった顕本法華宗の寺院です。山号は宝立山。現在、その跡地は「お塚山」として町指定史跡に指定されており、地域の歴史と仏教文化を物語る重要な場所です。本寺は現在、近隣の南横川にある同宗の「芳墳寺」が名跡を受け継いでいます。

方墳寺の概要

方墳寺は、日蓮の法脈を受け継ぐ日什門流(本寺:京都妙満寺)の日経(にちけい)によって、慶長2年(1597年)に創建されました。この地域は戦国時代、土気城主・酒井氏の政策「上総七里法華」によって法華宗以外の寺院がほとんど存在しなかった場所であり、方墳寺はその中でも重要な位置を占めていました。

創建者:日経

日経は、現在の千葉県長柄郡一松村の出身で、土気の善勝寺を拠点に活動していました。不受不施(ふじゅふせ)の法門を唱える彼の思想は、当時の権力者と対立することが多く、江戸幕府の厳しい弾圧を受けることとなります。その結果、京都六条河原で耳削ぎ・鼻削ぎの刑罰を受け、日什門流は停滞を余儀なくされました。

方墳寺の歴史

方墳寺の破却と弾圧

方墳寺は、寛永4年(1627年)、大網城の領主・三浦重成によって徹底的に破却されました。当時、日経の弟子である日耀(にちよう)と日盛(にちじょう)は捕縛され、弾圧の対象となりました。

信仰の継続と地下信仰

弾圧の後も信者たちは信仰を絶やすことなく守り続けました。方墳寺跡地は「お塚山」と呼ばれ、信者たちにより守られてきました。江戸時代には、表面上は再興された「芳墳寺」が菩提寺となり、内証題目講(ないしょうだいもくこう)という形で地下信仰が続けられました。

明治以降の動き

明治時代になると不受不施派が解禁され、信仰活動が表面化するようになりました。明治44年(1911年)には地元有志によって日経の300年忌記念碑が建立され、地域の人々による信仰の継続が確認できます。

方墳寺にまつわる伝説と遺構

釣鐘淵の伝説

方墳寺の破却時、梵鐘がひとりでに沈んだ(または信者が隠匿した)という伝説があります。その場所は「釣鐘淵」と呼ばれ、地域の人々の間で語り継がれています。

五輪塔の移設

寺の境内にあった五輪塔はばらばらに埋められていましたが、大正時代に掘り起こされました。現在、それらは田中家宅や南横川公民館脇など複数の場所に分けて保存されています。

恕閑塚(お塚山)

方墳寺跡地には日浄が埋葬されたとされる「恕閑塚」があり、地域の信者によって大切に守られてきました。ここには、後に五日堂が建立され、信仰の場として使用されました。

芳墳寺と現在の信仰

方墳寺の名跡を受け継ぐ芳墳寺(南横川所在)は、現在も地域の人々に信仰されており、不受不施派の教えを受け継いでいます。この寺院は表面的には普通の菩提寺ですが、信者たちは内証題目講を通じて仏教の教えを深く実践しています。

アクセス情報

方墳寺跡地「お塚山」は私有地となっており、一般の立ち入りには制限がありますが、芳墳寺は以下の方法で訪れることができます。

おわりに

方墳寺の跡地とその名跡を受け継ぐ芳墳寺は、弾圧と信仰の歴史を物語る重要な場所です。厳しい弾圧にも関わらず信仰を貫いた地域の人々の姿勢には感銘を受けます。訪れる際には、地域の歴史や文化への理解を深め、尊重の念を持って接することが重要です。

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名称
方墳寺
(ほうふんじ)

九十九里・茂原

千葉県