日本寺の歴史
創建と発展
日本寺の開山は神亀2年(725年)とされ、聖武天皇の勅願により、行基によって創建されました。創建当初は法相宗に属していたと伝えられています。最盛期には七堂十二院百坊を有する大寺院であり、当時の高僧である良弁、空海、円仁が逗留したとされる記録も残っています。
高僧たちの伝説
良弁は木彫の大黒天を彫り、空海は100日間にわたり護摩修行を行い、石造の大黒天を残したとされます。また、仁王門の金剛力士像は円仁の作とする伝承もあります。これらの伝説が示すように、日本寺は修行の地としても高い霊的価値を持っていました。
宗派の変遷と再興
天安年間(857年~859年)には円仁の入寺により、天台宗に改宗。その後、度重なる衰退と再興を繰り返しましたが、源頼朝や足利尊氏の援助により再興が図られました。さらに江戸時代には真言宗を経て、徳川家光の治世下で現在の曹洞宗へと改宗されました。この時、幕府から朱印状も授けられました。
五百羅漢と近代以降
江戸時代後期、日本寺の第九世・高雅愚伝によって発願された千五百羅漢像の建立が始まりました。上総国望陀郡桜井村の石工・大野甚五郎英令が、門弟27人とともに1779年から1798年までの約21年をかけて、1,553体もの石仏を彫刻しました。
しかし、明治期に入ると廃仏毀釈運動により多くの堂宇が破壊され、さらに1939年(昭和14年)の火災で本堂を失うなど、日本寺は大きな打撃を受けました。
日印友好の証:聖菩提樹と記念碑
1989年(平成元年)、インド政府から、日本とインドの友好と世界平和を祈念して、仏陀が悟りを開いたとされる「ブッダガヤの聖菩提樹」の苗木が贈られました。この苗木は、インド政府の特別な計らいで日本寺に分木されたもので、海外への譲渡はこれが初めてでした。
同年5月24日、約400人の関係者が参列し、植樹記念法要が執り行われました。さらに、「四獅子像初転法輪石柱」のレプリカも寄贈され、大仏広場脇に建立されています。
文化財と見どころ
重要文化財:梵鐘
日本寺には、国の重要文化財に指定されている「梵鐘」があります。この梵鐘は元亨元年(1321年)の銘を持ち、その歴史的価値は非常に高いものです。
千五百羅漢像
鋸山の中腹にある参道の岩壁には、表情豊かな1,553体の石仏が並んでいます。それぞれに異なる表情が彫られており、訪れる人々の心を打つ圧巻の仏像群です。
日本一の大仏
1969年に復元された「薬師瑠璃光如来」は、高さ31.05メートルを誇る一枚岩の磨崖仏です。岩壁に直接彫られたこの仏像は、日本一の磨崖仏として知られています。左手には薬壺を持ち、病から人々を救う仏とされています。
百尺観音と地獄のぞき
鋸山山頂エリアには、巨大な「百尺観音像」があり、迫力ある姿で訪れる者を迎えてくれます。また、地獄のぞきと呼ばれる断崖絶壁の展望ポイントは、高さに慣れていない人にとっては足がすくむようなスリル満点のスポットです。房総半島や富士山、三浦半島まで望む大パノラマが広がります。
鋸山の地形と歴史
鋸山の名称と成り立ち
鋸山(のこぎりやま)は、標高329.5メートルの山で、正式名称は日本寺と同じ「乾坤山(けんこんざん)」です。乾坤とは天地を意味します。凝灰岩で形成された山体は、江戸時代から房州石として採石が盛んに行われ、山肌が鋸の歯のように見えることから「鋸山」と呼ばれるようになりました。
産業遺産としての価値
採石された石材は、横須賀軍港や東京湾要塞、横浜の港湾設備、さらには靖国神社や早稲田大学などで使用されました。1985年に採石は終了しましたが、現在も石切場跡や石材搬出路などの産業遺産が残り、観光資源として生かされています。
地理と眺望
鋸山は房総丘陵の一部で、海岸線に近いため、山頂からは東京湾一帯や伊豆大島までの絶景を楽しむことができます。近隣には、富山・御殿山・伊予ヶ岳といった安房三名山も望めます。
アクセス情報
鉄道と徒歩でのアクセス
東日本旅客鉄道(JR東日本)の内房線「保田駅」から日本寺へは、徒歩で約45分ほどの道のりです。途中には山道もあるため、歩きやすい服装と靴がおすすめです。
ロープウェイと自動車道
鋸山ロープウェーを利用すれば、短時間で山頂までアクセス可能です。また、鋸山登山自動車道を使えば、車で山頂付近まで行くこともできます。ロープウェイを利用することで、誰でも手軽に山頂の絶景や「地獄のぞき」を楽しむことができます。
おわりに
日本寺と鋸山は、歴史的・文化的価値と豊かな自然を兼ね備えた貴重な観光地です。1,300年近い歴史をもつ日本寺の石仏群や、鋸山の岩肌に刻まれた産業遺産、そしてスリルと絶景を楽しめる展望ポイントは、訪れる人々に忘れがたい印象を与えてくれます。関東圏から日帰りでも訪れることができるこの地で、心安らぐひとときを過ごしてみてはいかがでしょうか。