主祭神と配祀神
玉崎神社の主祭神は玉依姫尊(たまよりひめのみこと)です。玉依姫尊は、神武天皇の母であり、神代より続く日本神話において重要な女神のひとりです。また、配祀神として古代日本の英雄である日本武尊(やまとたけるのみこと)も祀られています。
神話とともに伝わる創建伝承
海難と弟橘媛の自己犠牲
社伝によれば、玉崎神社の創建は景行天皇40年(西暦110年頃)とされています。日本武尊が東国征伐のため相模国から上総国へ渡航しようとした際、激しい海の荒れに遭いました。そのとき、日本武尊の后である弟橘媛(おとたちばなひめ)が「これは海神の御心に違いない」として、自ら海に身を投じ、海神の怒りを鎮めました。
その結果、日本武尊の船は無事に上総の葦浦(現・鴨川市吉浦)へ到着し、さらに玉の浦(現在の九十九里浜)へと向かうことができたといいます。日本武尊はこの出来事を神の御加護と感じ、海神の娘である玉依姫尊を、玉の浦の東端にある「玉ヶ崎(現在の竜王岬)」に祀ったと伝えられています。
「玉ヶ崎」から「竜王岬」へ
後の時代には、この「玉ヶ崎」という地名が「竜王岬」と呼ばれるようになりました。これは、玉依姫尊を海神の娘、すなわち竜宮の神とみなした信仰によるもので、「竜王の鎮まり坐す崎」として人々の崇敬を集めました。
中世から近世へ ― 武人と文人の崇敬
玉前神社との関係と「下総国二宮」の伝承
『神道集』には「玉崎大明神者、此国二宮」と記されており、玉崎神社が下総国の二宮とされる説が見られます。また、戦国時代の永禄年間には、隣国・上総国の一宮である玉前神社が戦火を避けて神体を一時的に玉崎神社へ移したという伝承も残っています。
武人たちの信仰
中世には「三崎庄横根郷玉ヶ崎大明神」や「玉の浦総社玉ヶ崎大明神」などの名で呼ばれ、武将たちの篤い信仰を受けました。平安時代から鎌倉時代にかけては、平貞盛、源頼義、源義家、源頼朝などが参詣し、祈願や社殿の造営に尽力したと伝えられています。
文人たちの参拝
江戸時代には、武士だけでなく学者や文人の参拝も盛んでした。平田篤胤、平田鐵胤、斉藤彦麿、高田与清、大国隆正など、国学者を中心とした知識人が神社を訪れています。神道思想の中で玉依姫尊は特に重要視されており、学問的観点からも注目を集めていたことがうかがえます。
享保の奇跡と将軍の筆
享保14年(1729年)には、地元の地頭らが豊漁を願って祈願したところ、海は大漁に湧き、多くの漁民がその神験に驚嘆しました。この出来事を受けて、当時の神祇官領・卜部朝臣兼雄により正一位の神階が授けられました。
その際に掲げられた拝殿内の扁額は、なんと第8代将軍・徳川吉宗の筆によるものと伝えられており、今も参拝者の目を引きます。
近代から現代への歩み
明治以降の神社の位置づけ
明治時代に入り、玉崎神社は社号を現在の名称に改めました。明治19年(1886年)1月18日には郷社に列せられ、明治39年(1906年)12月25日には千葉県より幣帛供進神社の指定を受けるなど、国家神道の体系の中でも重要な地位を占めました。
文化財としての価値
長年の歴史とともに、多くの建造物や宝物が守り伝えられてきました。本殿は昭和48年(1973年)に、拝殿は平成17年(2005年)に、それぞれ千葉県指定有形文化財(建造物)に指定されました。
さらに、社宝である一対の古瀬戸狛犬も、平成3年(1991年)に千葉県指定有形文化財(工芸品)として認定され、その歴史的価値が評価されています。
建築様式と芸術性
本殿は元禄年間(1688年〜1704年)に建てられた一間社流造の形式を持ち、細部に至るまで美しい彫刻が施されています。拝殿は天保年間(1830年〜1844年)の造営と伝わり、当時の職人たちの技術と信仰の結晶が随所に感じられる建物です。
交通アクセスと参拝情報
公共交通機関の利用
玉崎神社へのアクセスは以下のとおり便利です。
- JR東日本・総武本線 旭駅からバスで双葉町行きに乗車し、「玉崎神社」バス停で下車、徒歩1分
- または、飯岡駅からタクシーでのアクセスも可能
海と神社が織りなす風景
玉崎神社は九十九里浜に面した海辺に位置し、鳥居の向こうに広がる太平洋の絶景が訪れる人々を魅了します。神社の周辺には風光明媚な景勝地も多く、参拝とともに自然を楽しむことができるのも魅力の一つです。
まとめ ― 玉崎神社を訪れる意義
玉崎神社は、神話に彩られた由緒正しき神社であり、海の安全、漁業の繁栄、そして家内安全を願う多くの人々の心のよりどころとなっています。美しい社殿や文化財、そして豊かな自然に囲まれた立地は、心を静め、歴史と神々の息吹を感じる特別な空間を提供してくれます。
旭市や九十九里方面を訪れる際には、ぜひ玉崎神社に足を運び、その深い歴史と信仰の世界に触れてみてはいかがでしょうか。