近藤勇と流山
歴史的背景
鳥羽・伏見の戦いで官軍に敗れた江戸幕府軍は江戸に撤退しましたが、新選組の局長であった近藤勇は江戸を離れ、流山に陣を敷きました。彼が流山を選んだ理由については、いくつかの説があります。例えば、会津藩へ向かう途中で散り散りになった同志を集め、新たな部隊を編成しようとした、あるいは流山が水運や醸造業で栄えていたことが理由だとも言われていますが、正確な理由は明らかではありません。
1868年(慶応4年)4月2日頃、近藤勇が率いる約200人の部隊が流山村に到着し、彼らは光明寺などに分宿しました。近藤勇と幹部たちは、当時酒造業を営んでいた「永岡三郎兵衛」の家を陣屋として利用しました。しかし、翌4月3日、新政府軍によって流山は包囲されました。近藤勇は最後には単身で投降し、戦闘は避けられました。
永岡屋敷と陣屋跡の発見
永岡家とその陣屋
近藤勇が利用した永岡家は、当時酒造業を営んでいた家でした。彼らの屋敷が陣屋として使われ、近藤勇たちはここで新政府軍に包囲されるまでの短い間、滞在していました。しかし、永岡家は新選組との騒動の後、経営が不調となり、その後は秋元家に引き継がれました。
2011年(平成23年)に、秋元家の当主である秋元浩司氏が敷地内の稲荷祠から幕末当時の札を発見しました。この札は箱に入れられており、その箱書きから、この場所が近藤勇の陣屋であった「永岡家」宅跡であることが確認されました。これにより、近藤勇が最後に陣を構えた場所が明らかになりました。
現在の陣屋跡
残念ながら、当時の陣屋として使われた建物はすでに取り壊されており、その跡地は現在駐車場となっています。しかし、本陣の土台石は現存しており、現在の土蔵前と休憩スポットに移設されています。また、当時の階段も保存され、流山博物館で展示されています。
なお、現在跡地に建つ土蔵は「秋元家住宅土蔵」であり、これは近藤勇陣屋と同時期に建築されたものです。2018年5月には国の登録有形文化財に登録され、同年10月には所有者の秋元浩司氏から流山市に寄贈されました。陣屋として使用された建物自体は現存していませんが、この場所は今でも新選組ファンをはじめ、歴史愛好家に親しまれています。
近藤勇陣屋跡の歴史
主要な出来事
- 1868年(慶応4年)4月1日 - 近藤勇が率いる鎮撫隊200名が東京都足立区綾瀬の五兵衛新田から流山に転陣。
- 1868年(慶応4年)4月2日 - 近藤勇が「永岡三郎兵衛」宅に本陣を敷く。
- 1868年(慶応4年)4月3日 - 新政府軍が流山を包囲。近藤勇は単身投降し、戦闘は回避される。
- 2011年(平成23年) - 秋元家敷地内で幕末当時の札が発見され、永岡家宅跡であったことが確認される。
- 2018年(平成30年)5月 - 秋元家住宅土蔵が国登録有形文化財に登録。
- 2018年(平成30年)10月 - 土地所有者の秋元浩司から流山市に寄贈される。
観光情報
新選組ファンに愛される史跡
近藤勇陣屋跡は、現在も多くの新選組ファンや歴史愛好家が訪れる観光スポットとなっています。毎年4月の第2日曜日には、「流山新撰組まつり・勇忌」が開催され、多くの観光客がこの地を訪れます。近藤勇や新選組の歴史を振り返る貴重な時間となるこの祭りは、流山市の文化行事の一つとしても大切にされています。
アクセス
近藤勇陣屋跡へのアクセスは、流鉄流山線の「流山駅」から徒歩5分程度と、非常に便利です。流山市の中心部に位置しており、周辺には他の観光スポットも点在しているため、歴史散策を楽しむには最適な場所です。
まとめ
近藤勇陣屋跡は、幕末の激動の歴史を垣間見ることができる貴重な史跡です。新選組局長として知られる近藤勇が最後に陣を構えた場所として、多くの人々に親しまれ、歴史的な重要性を持っています。流山市を訪れる際には、ぜひこの陣屋跡に足を運び、幕末の歴史を感じ取ってみてください。また、近藤勇や新選組に関連するイベントや祭りも開催されており、観光客にとっては見逃せない場所となっています。